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2023-12
留学成果報告書12月分
留学とは何か
【派遣先大学について】 (1) 基本情報 ・設立年 1962年 ・学生数 21,044人 ・設置学部 109 ・その他 人柄は基本的に優しくて、困ったことがあると助けを求めれば助けてくれる。 (2) 所属した学部、コース、プログラム等(原語および日本語訳) departamento de historia 歴史学部 (3) プログラムの概要 ・履修可能な授業、所属学部選択の制限など 履修希望の授業を学期始めにUnBに提出して、そこで履修可能かどうか判断される。大体の授業は履修可能。 ・学部留学の場合:選択した学部・学科以外の授業を履修できるか どんな学部学科の授業でも履修できる。実際私も歴史学部に所属していたが、哲学、ポルトガル語、英語など色々な授業を履修した。留学生の中には手話の授業を履修している人もいた。 ・学部留学の場合:語学コースを並行履修できるか (できる場合、申し込み方法、有料か無料か、有料の場合費用・スケジュールなど) できる。申し込み方法は普通の授業と同じで、履修登録時に登録するだけで、別途料金がかかることはない。授業は週に2回。 ・語学留学の場合:学部科目を履修できるオプションがあったか (4) 大学の雰囲気、留学生や日本からの学生の割合や人数 留学生に慣れているという感じで、優しい。困っていたら、助けてくれる人が多い。日本からの学生は知っている限りは6人くらい。留学生はアジアからの留学生が多くて、ポルトガル語の授業では韓国人、中国人、日本人がほとんどだった。 (5) 課題や試験 (KUISとの違いや負担の大きさなど) 課題の量はあまり変わらないように感じた。特にきついと感じたことはない。試験は記述がメインで、時間以内に与えられたテーマについて論じるというようなものが多かった。先生によっては留学生は別のテストを用意してくれることもあるが、基本的には他の学生と同じテストを受ける。 (6) 困ったときに相談できたか、相談窓口はどこか、どのようなサポートを受けられたか 困った時は国際教務課のようなところに行くと相談に乗ってくれた。履修登録でミスがあったが、それも彼らに相談したら、すぐに解決してくれた。 (7) オリエンテーション (オリエンテーションがあったか、あった場合その内容) オリエンテーションはある予定だったが、他の留学生との予定が合わなくて、なくなった。 (8) 履修登録 (履修登録のタイミング(渡航前・渡航後)や、履修登録の方法など) 前期の履修登録は渡航前にlearning agreementを用いて提出する。その用紙に希望の授業を書いて提出するだけで履修登録完了。後期も同様にlearning agreementを出して履修登録をする。前期の授業が終わってからすぐに後期の履修登録が始まるので、注意が必要。 【自身の留学について】 (1) 留学を決意した理由 そもそも大学を選んだ理由の大部分はブラジル留学に行くことだったので、大学に入ってから新たに決意したことはない。何か立派な理由があったわけではない。ただただブラジルに行きたかったから。 (2) 留学先を選んだ理由 ブラジリアを選んだのはブラジルの中でも比較的安全だし、寮が大学の近くにあって便利そうだったから。 (3) 留学のためにした準備/しておけば良かったと思う準備(学習面) 語学を習得するためには余程の天才ではないかぎり、コツコツ学習するのが、一番早いと思った。語彙は文章を読む時より会話している時に必要性を強く感じた。文章を読むときも語彙は必要だが、文章を読む時は時間をかけることができるので、必要性は強くは感じない。しかし、会話はその場ですぐに語を使えなくてはいけないので、そういった意味で、会話の時の方がより語彙を求められる。 (4) 留学のためにした準備/しておけば良かったと思う準備(生活面) 当たり前だが、日本の生活で必要なものは必要。生活にこだわりがないのであれば、ブラジルのスーパーで買えるので何ら問題はない。ブラジルに人が住んでいるのだから、人が住むためのものは全てブラジルにある。ただ、生活スタイルの中でこだわりがあるのなら、それを日本から持っていったらいいと思う。 (5) 留学中の交友関係 (どのようなきっかけで交友関係が広がったか、どのような活動をしたかなど) 日本語学科の人は積極的に話しかけてくれる人が多いので、友達になりやすい。他の授業でも困ったことを聞けばそこから仲良くなることもある。寮があるので、そこで友達ができる。ショッピングに行ったり、サッカーをしたり日本で友達と遊ぶのと変わらない。 (6) 授業についての全般的な感想、学んだこと 学生が積極的だった。しかも純粋に疑問に思っていることを質問しているので、質問しなくてはという強迫観念も、逆に質問しづらいと思うこともなかった。 (7) 授業外で参加した活動 (ボランティア、サークルなど:参加した場合申し込み方法) 日本祭りの手伝いをした。申し込み方法は特になく、大使館の方から誘われたので参加した。 (8) 授業外の活動についての全般的な感想、学んだこと 私は浴衣を着て、イベントに来た人と写真を撮るということをした。見せ物になった気分を味わえる。楽しく手伝える人もいるかもしれないが私には向いていなかった。 (9) 留学で達成した最も大きなこと 約1年間日本以外の国で生活したこと (10) 今後どのような学習を継続していきたいか 興味のままに勉強を続けていきたい。ポルトガル語はやはり難しいので、もっと話せるように頑張りたい。 【渡航・滞在先住居について】 (1) 派遣先への出願 (気を付けるべき点など) 提出する際に書類に不備がないようにする。提出期限を守る。 (2) ビザ申請 (気を付けるべき点や、申請から発行までにかかった時間など) 早めに準備に取り掛かると良い。申請から発行までは一ヶ月くらいかかった気がするので、それを考慮して良き頃に申請すればいいと思う。 (3) 航空券を予約した方法 (旅行代理店や利用したウェブサイトなど) HISのウェブサイトで予約をした。ウェブサイトの中で、安そうで乗り継ぎの時間が短そうなものを選んだ。 (4) 渡航したルート 行きは日本→フランクフルト→サンパウロ→ブラジリア 帰りはブラジリア→サンパウロ→スイス→日本 (5) 最寄りの空港から大学または住居までの移動 (大学の出迎えサービスがあったか、どの交通機関を使用したかなど) 大使館の方が迎えに来てくれた。着いてからそのあとすぐに市内観光をした。 (6) 滞在先住居を探した方法 (大学の寮に申し込めたか、寮に滞在した場合は申込みの方法やいつ頃申し込んだか、不動産業者や特定のウェブサイトを使用した場合はその名称やURLなど、住居を手配した方法を詳細に記入してください) 日系の寮があったので、そこに滞在した。その寮は神田外語から紹介されたもの。 (7) 滞在先住居についての詳細 (費用の支払い方法、設備や備品は何があったか、メンテンスの状態など) 支払い方法はいろいろあるが、私は現金で払った。pixで払う人もいる。 (8) 滞在先についての感想、アドバイス (どのような生活をするべきか、何を持っていくべきかなど) ルームーメイトが愉快な人だったので楽しかった。持ってくればよかったと後悔したものは特にない。大体揃っているし、足りないものがあれば、買えば良いと思う。 【滞在国・地域での生活について】 (1) 現地での支払方法や現金の調達 (どの支払い方法を主に使用していたか、現金をどうやって引き出したか、日本からどうやって送金したか、クレジットカードはどの程度使用できるかなど) ブラジルではほとんどカードで支払っていた。現金はVISAの使えるATMが大学の近くにあったのでそこから引き出した。 (2) 携帯電話 (現地で携帯電話やSIMカードをどうやって購入したかなど) ルームメイトが手伝ってくれて、SIMカード関係のことは大体やってくれた。まとめてギガを買うプランにしたので、ギガがなくなったら、追加で買い足していた。 (3) インターネット (キャンパス内や住居、街中でのインターネットの繋がりやすさなど) キャンパス、寮では快適にインターネットが繋がる。アマゾンや国境近くに行かなければインターネットは快適に使える。 (4) 医療 (現地で病院にかかったか、その際の対応はどうだったか、困ったことはあったかなど) 現地の病院にかかっていないのでわからない。 (5) 日本から持っていくべきもの 日本での生活の中でこだわりのあるものは持っていった方が良い。 (6) 治安状況 (どのような危険があるか、どうやって情報を入手したか、どのような対策をしていたか) ブラジリアは比較的安全で、特に危険だと思う場面には遭遇しなかった。しかし、街中を歩くときは後ろを振り返って、安全を確認しながら歩いた。 (7) 食事 (毎食どのように用意したか、大学の学食があったか、学食や外食はいくらくらいか) 基本的には朝は寮の朝食、昼は大学の学食、夜は寮のご飯を食べた。朝ごはんは無料、昼は6レアル、夜は11レアル程度 (8) 情報の入手 (書籍やウェブサイト、ガイドブックなど、現地の情報をどのように入手したか) 特に書籍やガイドブックなどは買っていない。気になったら、その時にウェブで調べた。ウェブのリンクを保存していないので、どのウェブサイトかはわからない。 (9) 特筆すべき文化や習慣の違い、気を付けるべき点 基本的にオープンな性格なので、自己開示が苦手な人は会話するときに少ししんどさを感じるかもしれない。 【進路について】 ※目標編(非公開)と重複しても構いませんが、公開することが差し支える内容は目標編に記載してください。 (1) 留学終了後の進路 (就職、進学、未定など、決まっておりかつ公開が差支えなければ就職先や進学先) 国内の哲学科の大学院に進学希望 (2) 現地での就職活動や進学準備 (現地から日本の企業に就職活動をしたか、日本企業のジョブフェアなど現地で就職活動をしたか、大学院の進学準備をどのように行ったかなど、した場合その方法) 各大学院のホームページなどから募集要項などを確認し、院試に必要なものを確認にそれに向けて準備をした。 (3) その進路に対して留学経験をどう活かすか 日本以外の国で暮らした経験が思考する時に私に影響を確実に与える。今現時点でそれを実感している。だから、意図的に留学経験を活かすというよりは思考の中で、それらの経験が自然に要請され、活用される。 【今後留学を目指す学生へのアドバイス】 留学に行きたくて、そして実際に行ける状況にいるのなら、その状況に感謝して留学に参加した方がよい。留学中もっとも大切なものはお金なので、お金を支援してくれる人に感謝して自分の思う全力で楽しめばきっといい留学になる。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
月次報告書12月分
逃げすぎず、耐えすぎず
後期の授業も終わり、留学の終わりが近づいている。 今ブラジルは夏なので暑いし、日差しで肌がチクチクと痛む。こっちの夏は日本のようにジメジメとした暑さではないが、とにかく日差しが強い。サングラスをした方が良いのだが、いつも忘れてしまって、道路に出た時に気づく。強い日差しで日焼けをしているので日本に帰ったら冬とは思えない日焼けで季節に溶け込むことができなそうだ。 マルクスガブリエルの本を哲学の授業で読んだのだが、そこで存在するというのは意味の場に現れることだというような主張がなされているのだが、では意味の場は存在するのかという疑問が浮かぶ。おそらくその本をもっと読めばこの疑問に答える箇所はあるのだろうが。彼は世界、つまり、すべての意味の場を包摂するような意味の場は存在しないと言っているのだが、それでは意味の場は存在するのか、するとしたらどのように存在するのかということが気になる。この存在の仕方が意味の場とその他のものとで違うなら、そもそも存在するとは意味の場に何かが現れることであるという主張が正確ではないのではないかという考えもよぎる。もしくは意味の場の存在様式だけ例外的に他のものと異なるのか。もう少しこの本を読む必要がある。同時にベルクソンの精神のエネルギーという本も読んでいるのだが、この二人は生きている時代は全く違うが、問題として取り上げているものに共通点があるように思える。それはいわゆる科学主義的なものに対する批判である。科学的世界観というもののある程度はすでに哲学の範囲で語られているものであるといったような主張。 学期の最後として、寮の人たちの中の参加できる人でシュラスコをやった。前期の終わりと後期の始まりにやった時よりは年末ということもあり人が少なかったが、楽しかったし美味しかった。そこで会うのが最後になってしまう人もいたので、留学の終わりを感じた。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-11
月次報告書11月分
雨に濡れたら心が晴れた
もう11月も終わろうとしていて、一年経つの早いなと今年もいつものように思った。 近年、根性論的なものが嫌悪される風潮があるように感じるのだが、子供を持つ知り合いの人の話を聞いて、いくら逃げようとしても根性は必要なのだろうなと感じた。根性と根性論は端的に別物で、根性論が思想であるのに対して、根性は実践の伴うものであり、それが必要な場面で必然的に私たちに要請されるものである。私は根性論には完全に同意することはないし、どちらかというと嫌いで、根性論を避けているが、それでも根性は必要なのだと思った。どうしても逃げられないものや場面、それらを達成するため一要因として、根性が必要なのだ(もちろん根性の発揮の仕方は様々で、ただがむしゃらにやるということが全てではない)。そしてその逃げられないようなものや場面というのは、つまり責任を負っている場面などである。仕事、子供を育てるなど、責任を持つときにある程度の根性が要求されるのだ。そして、責任をもつということ、根性が要求されることを受け入れるということが大人になることなのではないかとその知人と話の中で思った。その上で、私は責任から逃げようとすることが多いので、自省した。 タイムラインは地層的である。Twitter のタイムラインは地層的だ。色々なツイートが縦に並んでいるのも実に地層的な見た目をしている。そのタイムラインを見れば、その時どんなことが流行っていたり、話題になっていたりしたのかがわかる。使われている言葉からそのツイートがいつ頃にツイートされたものかがわかる。実際の地層から得られる情報は世界の科学的な視点からの環境であるが、タイムラインの地層から得られるものは人間社会の情報が主なものであるだろう。1000年後の史料研究でTwitterが扱われているかもしれないと思うと少しワクワクする。 私は音楽を聴くときに歌詞が頭に入ってきてしまい、楽器を聴くのが苦手だ。言語に縛られすぎているのか馴染み深い音だから耳が自然に言語を捕まえてしまうのかわからないが、とにかく楽器を聞き取るのが難しい。音楽を聴く上で言語が中心にあり、その周りに諸楽器があるというような感じだ。だから、どうしても言語がよく耳に入ってくる。私の好きなロックバンドにマキシマム・ザ・ホルモンというバンドがあるのだが、彼らの楽曲を聴いているときは割と楽器の音を聴くことができる。それはおそらく歌詞を聞き取るのが難しいからだと思う。そしてこのような歌詞を聞き取るのが難しいような曲を聴くと、言語がただ単純に音になる。つまり、言語がある一種の楽器、音色になる。言語に縛られている(特に日本語)私からすると、言葉の「音」という側面を強調しているような曲を作れるのはすごく憧れである。おそらく母語で曲を作ろうとすると言葉の「音」という側面よりも、その言葉に持たせる意味とかの方に気を取られてしまうことが多いと思う。つまり、歌詞には文学的な意味があり、メッセージがあるということが重視され、ただ、耳が、聴覚が、感覚的に楽しいというような視点は軽視されてしまうことがあるのではないかと思う。さらにマキシマム・ザ・ホルモンのすごいところは言葉を音とした上で、歌詞にもしっかり意味があることである。文学としても、音としてもどちらでも言語を楽しめる。おそらく、全く知らない言語の曲をきく際には単純に言語を音として楽しめているのだろう。 今月で授業が終わるので、留学の締めくくりの月として、授業に臨みたい。 最近は雨が降ったり、降らなかったりしていて天気が変わるの見ると楽しい気持ちになる。この前RU(学食)にお昼ご飯を食べに行こうと思い、歩いていたら急に大雨が降ってきて、傘も持っていなく笑うしかなったので、雨の中笑いながら走ってRUへ向かった。走っている最中楽しかったので、嘘でも笑ってみるものだなとずぶ濡れの状態でRUでご飯を食べている時に思った。 旅行に行くとお金がかかるが、日本から南米に旅行するのはもっと大変なので、今のうちに旅行をしておこうと思った。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-10
月次報告書10月分
木の脱皮
今月はクリチバに旅行した。その際に先住民族の生活や歴史に関する博物館に訪れた。そこには当時使われていた生活用品や何かの儀式のために用いられたであろう装飾品や道具が並んでいた。また、先住民族の人たちの瞬間を切り取った写真なども展示してあった。その中に木で編まれたカゴのようなものも展示されていた。しかし、ただ木で編まれただけではなく、その中には粘土か何かでコーティング加工のようなものがされてあった。これは発見された後にそのカゴを維持するために施されたものかもしれないが、もし、それが作られた当時からその加工がされていたのならと考えた時に石器や土器に対するある考えが浮かんだ。私は以前まで、縄文土器などについている模様は模様をつける目的で土器を作る過程においてヒモなどを巻き、意図的につけたものだと勝手に思っていた。しかし、このコーティングされたカゴを見た時、実はこの認識は間違っていたのかもしれないと思った。つまり、縄文土器などについている模様は模様をつけようと思ってつけたのではなく、土器を作る過程で必然的についてしまったものなのではないかということである。どういうことかというと、まず、ヒモで編まれた土器の雛形を作る。そしてそこに粘土をつけて土器の形にするのだ。こうすることで出来上がった時にはその土器に紐の模様が付くのだ。この方法で作れば、雛形がない状態で作るより簡単に作れるのではないかと思われる。粘土の塊を器の形に形成するよりも、雛形を作ってそこに粘土をくっつけていく方が容易ではないだろうか。また、作り方によっては同じような形や大きさの容器をいくつも作れるかもしれない。 これを機に土器について調べてみたところ、どうやら最古の土器は無文土器で模様が全くない土器であったそうだ。また、縄文の模様は撚り紐を転がしてつけられたと考えられているようだ。私も高校までで学んだ時の考えではこれと同じように意図的に、そして容器を作った後で模様をつけていたのだと思った。でももしかしたら、模様は意図的なものではなく、制作過程で必然的に、そして無意識的についてしまったものなのではないかと考えることも可能ではないだろうか。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-08
月次報告書8月分
ブラジルその日その日
こっちでは冬休みに入った。休みは一ヶ月程度で、日本より少し短いような感じだ。休みが終わるのが嫌いなので、それならいっそ休みなんてなくていいと休みの終わりが近づくと思う。 そんなことはさておき、ある本を読んでいて、すごいと思うことがあった。この本の内容の話をして、それがいいか悪いというような物を始めてしまうと、それは彼のなんらかの種の偏りを通して、日本を見ることになってしまうため、内容については評価しないでおこうと思う。だから、この文章では内容ではなく、彼がこの本を書くために用いたであろう技術について焦点を当てる。(しかし、その技術ももしかしたら、彼という偏り、言い換えれば、彼の特徴や彼だからできるというようなことに多分に影響されているかもしれない。) その本は「日本その日その日」というエドワード・S・モースという学者である。もしかしたらこの名前を聞いたことがあるかもしれないが、それは彼が日本で大森貝塚という貝塚を発見したことで有名だからである。彼のこの偉業は一旦横に置いて、この本は彼の日本での日記のような形式になっている。日本に着いた日から書かれ始めている。彼はまだ日本に上陸する前から、船で日本人に岸へ運んでもらっている最中から日本人という彼にとって新しいものに胸を躍らせている。西洋国家の法支配の国では考えられないような世界がそこには広がっていたんだということに関する驚きが文を通じてひしひしと伝わってくる。 彼の日記はまるでSF小説の中の架空の街についての話に思える。なぜなのか、それはおそらく、当時の日本が私にとっても馴染みのないものであることと、彼の言語による描写能力の高さに起因しているのだろう。当然その時の日本を経験したことなどないのに、彼の文を読んでいると、過去の一時代の中にタイムスリップしたような感覚になる。文章から、仮想空間が生成されるといった感じだ。きっと彼は世界を描写する時に世界を描写するということに関して、すごく真面目なのだろう。だから、私だったら、意識にすら入らずに見落としてしまうことについても、見落とさずにしっかりと描写することができるのだと思う。また、この日記の文はとても知識量が多い。彼が学者であるということもあり、調査力がすごいのだろうか。世界をよく見ているのだろう。私もこの報告書を彼の日記のように書きたいと思った。果たしてできるだろうか。観察するだけで、疲れて頭が痛くなりそうな予感がする。 この本が私にとって近いものであるように感じた一つの理由はちょうど私も異国の地にいて、それまでの慣れ親しんだ常識とは違う世界にいるという状況の近さであろう。 彼は単に語彙を多く持っているという訳ではない。文章を読んでいる人にその文から映像を想像させるのが上手いのだ。確かに語彙をたくさん持っているというのはあるだろう。しかし、それだけではない。物をよく見ているし、文から映像を想像する際にどのような情報が必要かを理解し、それを的確に文章の中に入れているのだ。だからより正確には語彙の使い方が上手いという言い方の方がいいかもしれない。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-07
月次報告書7月分
物語の性格
歴史学入門の授業が先月終わり、この授業で改めて面白いと思ったのは、事実というものの脆弱性である。ここでいる事実というのは人間が残すタイプの事実だ。つまり、この世界には重力があるとか地球の外には無重力空間が広がっているとかそういうタイプの事実ではなく、歴史やある人間社会の中で発生した出来事に対する事実ということである。これらの事実は非常に脆弱である。まず、ある事実が発生した際にそれを記録しておく媒体が、そもそも脆弱である。インターネット技術がなかった時代にはそれは紙や木などのものに情報が記録されていた。これらのものは風化しやすいし、壊れやすい。(この点に関しては石などは優れた記録媒体なのかもしれない。)また人間の手によって容易にそれらを破棄したり、修正したりすることが可能である。インターネットが出現したことにより、デジタルデータは破棄されにくかったり、データにアクセスしたことに痕跡が残るので改ざんしずらかったりするのではないかという期待もあったが、AIの出現により、おそらくそれらの期待はなかったものにされてしまうのではないかと思う。それどころか、今までは一応世界で実際に起きた事実が記録され、それが改竄されるというような流れであったが、AIにより、事実と虚偽の区別がそもそもできなくなってしまうのではないかと思われる。最近では本当にリアルな人間の動画をAIが作ったり、大手PC編集ソフトでは編集の際にAIを用いて、実際にその写真の中にはないものを追加したり、写真からAIがその周りの風景を予測することで写真の大きさを変えることができるようになったりしている。事実と虚偽が区別できなくなるというのは未来の話ではなくい、今もうすでにそうなっているのかもしれない。そこで問題になるのが、事実が作られる、ある出来事が事実だと言われるようになる過程である。事実と言われるとどこか客観的なもののように聞こえるが、果たして実際のところはどうなのであろうか。論理が通っているかどうかが事実を作るのか。それだとしたら、AIの作るものとは区別が困難になるので、また事実の認定方法の問題に戻ってしまう。それか、事実を事実度的な数値にして、事実というものは断定できないが、どれだけ事実度が高いかという判断基準に変えた方が良いのだろうか。 バイーアに旅行に行き、教会を訪れた。そこはだいぶ昔に作られて、何回も修繕工事をしているということであった。この話を聞いて、人間の体と建物は同じだと思った。人間の体も日々細胞は生成され、役割をまっとうできなくなった細胞とそのポジションを交代している。昨日の自分と今の自分では構成されている細胞は全く違うのに、それでも同じ一人の私として存在している。これは建物、特に歴史的な建造物もの同じである。その建物が作られて時代に建物を支えていたものと、今、私たちが、触れたり、見たりすることができるものは全く違うのに、それでも私たちはその建物に歴史を感じ、昔作られたものと同一のものだとみなしている。このことはいわゆる「テセウスの船」の問題である。これを構成するものが違うなら、昔と今ではそれは完全に違うものになっているということもできる。しかし、それでは不都合が色々と発生しそうである。例えば、戸籍の問題はどうなるのであろう。この問題を解決するのはなかなかに困難であろう。だから私たちはこのテセウスの船の問題に対しては同じものだと答えざるを得ないのではないだろうか。では、そのような仮定に立ったときには私たちは昨日と今日で構成するものが違うが、同じものだとどのような論理で言えば良いのだろうか。これは上の事実の話と少し似ている。つまり、ある歴史的事実だとされるものの名称がある。しかし、その内容が実際に起こったこととは違ってしまっていたとしても、私たちはその名称を使うことができる。しかも、その内容が間違っていても間違っていることに気づかなければ、違っていることを同じものだとみなしているのだ。すなわち歴史的非事実と歴史的事実が同じ名称であるということの元に同一視されている可能性があるのである。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-06
ブラジリアとブラジリア大学の類似性について。形、人工的な自然という存在。意図的に似せている可能性がある。まず形である。ブラジリアの都市の形は飛行機型の形をしているとして有名だ。ここで重要なのはあの飛行機の形の都市の横棒の分、飛行機で言う両翼、右翼から左翼までのあの形が重要なのだ。あの弓のように反った形をしているあの形だ。そして、ブラジリア大学にはICCという教室群および、アカデミックセンター群がある。その場所の航空写真を見てもらえればわかると思うのだが、こちらも同様に弓が反っているような、都市と同じ形をしている。 次に人工的な自然について話そう。ブラジリアは人工都市であり、街も道路も全て人工的に作られている。でも一度ブラジリアのなかに入るとそこが人工的に作られたとは思えないような景色が広がっている。空は広いし、一本も木がない場所を探す方が難しいくらい木が生えているし、とにかく「自然」が広がっている。でもこれらの自然は全て人の手によって作られたものである。空が広く感じるのでさえ人工的なのだ。なぜなら、ブラジリアでは建物の高さが決まっていて、主要の建物以外はその大きさを超えて建てることができないからである。空の広さでさえ人間が作れてしまうものなのである。同じようにブラジリア大学も多くの「自然」がある。先述したICCでは建物の天井の中央部分が全て吹き抜けになっていて、外にいるのか、中いるのか判断がしづらい状態になる。建物の「中」にいても空を見ることができる。また、通路に沿って花壇が作られていて、そこにはさまざまな木々や花々が植えてある。これもまた、我々に「自然」があると感じさせる。ブラジリアという都市そのものも、ブラジリア大学も人工的な自然を取り入れたという点で非常に似ている。ブラジリア大学が、ブラジリアにあるので、その時点で人工的な自然の中にいるから当たり前だ、ブラジリアという大きい括りの中にブラジリア大学が入っているから当然だ、ということも言えるかもしれないが、それでも、日本にもあるような自然が少ない大学を作ることだって可能であったわけである。それなのに、自然が多い大学であるということはそこには何かの意図があるように感じても何ら不思議ではない。 思考とは何か。AIの計算と何が違うのか。人間が、この物理法則に縛られ、感情に振り回される、この人間が考えることと、そうではないAIが思考するのではまた随分と変わっているのではないだろうか。AIの登場というのは人間とは何かという問いに答えを出す手伝いをするのではないだろうか。というのも人間を否定神学的に定義するために用いることができるのではないかということである。世界のあらゆるものと比較して、〇〇ではないものが人間だと定義する。今までは人間がわかる言語で話す人間以外の知的生命体がいなかったために、生物学的な差以外で人間を他のものから区別することができなかった。しかし、AIの出現によりそれが可能になる。明らかに人間よりも処理スピードが速く、物理的限界がない(コンピューターの中から出られないという一点を除いて。しかし、人間も同様に、人間の意識、脳、知能は人間の体の外に出られない。)計算機と人間を比べることでAIにあって人間にはないもの、人間にはあってAIにはないものがわかる。否定神学的判断というのは、結局、比較するサンプルがどれだけあるかということにその定義の決定方法が依存しているのではないだろうか。それは少し、AI的である。そして、AIの思考というのは物理世界、コンピューターの外の世界に出られない、経験できないからこその思考形態である。それはポルトガル語におけるconhecerとsaberの違いである。つまり、経験として知っているのか、ただ言葉や存在をー経験を伴わずにー知っているのかという差である。だから、AIの思考というのは全ての情報を辞書のみから取得し、体験が一切ない状態で、言語の文法ルールに言葉をはめるパズルゲーム、さらに言えば、全てのパズルが白色のピースでできているパズルなのである。つまり、文法のルールに則っていれば、どんな文章でも作れてしまう。例に極端なものをあげれば、りんごはゴリラだということも言えてしまうわけである。これが、AIと人間の現状の差である。辞書的な意味の中で、りんごとゴリラの共通点を見つけることさえできれば、りんごはゴリラだということが可能なのである。ここで上がる反論としては人間もりんごはゴリラであるというだろうというものだ。しかし、人間がそれをいう場合にはその二つが別のものだと知った上で、意図的に元の認識からズレるというものであるように思われる。それらは時に比喩であり、共通点を強調するための表現であったり、嘘であったりということだ。しかし、AIから感じられるのはその二つが真剣に同じものだと思っていそうだという感覚である。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-05
月次報告書5月分
日本人であるということ
日本祭りというのがあり、それに大使館の手伝いとして参加した。やることは浴衣をきて、ブラジル人と写真を撮るというものだ。行く前に友達から下駄をもらっていたので履いていった。まさかあの下駄が使えるタイミングがあるとは思わなかった。それ以外にも学校に履いていったり、スーパーに履いていったり、意外と使えることがわかった。下駄を履いていると向こうから勝手に話しかけてくれるので、会話の練習にちょうどいい。ただ歩くたびにカツカツと大きめの音がなるので、深夜の寮を歩くときは履かないようにしている。 添付した写真は私が一番好きな場所の写真だ。 明文化されていないルールや慣習がない社会は存在するのだろうか。もし明文化されていないルールや慣習、決まり事がない社会が存在するとしたら、それはどんな些細なルールでも全て文になっているということだと思うのだが、果たしてそんな社会は存在し得るのか。なぜこの話題に触れるかというとそれは明文化されていないルールなどというのは、いわゆる空気や暗黙の了解というやつだと思われるからである。日本は同調圧力が強く、空気に敏感であり、海外にはそんなものはないという意見はよくある意見の一つであると思われる。しかし、それは本当なのであろうか。もしかしたら、ただ海外の空気、暗黙の了解を外国人である私たちが知らないだけなのではないだろうか。これは先月書いた異文化交流=別の身内ノリという話に繋がると思う。海外の「空気」がわからない空気の読めない人になる可能性があるのである。しかし、これは海外に行ったら、即空気の読めない人になるというわけではない。なぜなら、そもそも海外の「空気」なるものがあるのかどうかはわからないし、それゆえに自分が空気を読めているのかどうかもわからないからである。 自分が思っている以上に私は日本的な人間であることがわかった。今まで20年間過ごして慣れた日本的な態度というのは強力的なものだ。特にブラジル人の多くは本当にずっと話し続けていることに衝撃を受けた。話すのが好きとかいうレベルを超えていて、そんなに口を動かして顎とか顔とか疲れないのかなと思う。これはおそらく主語が大きく、喋るのが好きではないブラジル人もいるだろう。しかし、私の周りにいる(サンプル数の少ない)ブラジル人は本当によく喋る。主語が大きいということはある種の強調表現で、その強調表現を使いたくなるほど、よく喋るということだ。最初来た時はリスニングの練習になるからよかったくらいにしか思っていなかったのだが、ずっと会話の中にいると耳が疲れてきて、最後には日本語のリスニングもままならなくなり、一回会話を休憩して欲しい。この会話が好きというのは授業中の発言に躊躇がないということに関係があるのだろうと思った。 日本の中で感じる多様というものが結局は日本の範囲を超えていないということがわかった。どういうことかというと、どんなに自分と違うと思う日本人でもどこかで共通の認識を持っている。同様にブラジルの中で感じる多様というのも結局はブラジルの範囲を超えないのだろう。だから、色々な国に行って複数の多様を体験するのが理想なのだろう。 今月は旅行のチケットとかを買ったので金がかかった。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-04
月次報告書4月分
大原問答
大学の授業が本格的に始まった。授業の内容が難しいというより、ポルトガル語が理解できないことの方が重大であると感じる。それでも、先生も学生もとにかく優しい。授業終わりにお菓子をくれたり、マンゴーをくれたりする。そしてすごく日本について聞かれる。それしか会話することがないと言えば、そうなのだが、それにしても質問されまくる。しかし、それが楽しい。歴史が好きでよかったと思った。大まかな日本の歴史がわかっていれば、大体のことは表面的に回答することができる。私は歴史が国の自己紹介の役割を持っていると思っていたが、ブラジルにきて、日本の歴史を説明するたびに、やはり、自己紹介の面を持っているなと認識する。あと日本語についても聞かれる。日本語学の授業を取っておいてよかった。というか日本語学の授業は留学に行く予定があるとか関係なしにも面白い授業なので取ることをお勧めする。話を戻すと、その日本について質問されまくる。日本について知っているとポルトガル語で会話ができるから楽しい。自分がもし日本出身じゃないかったら、どう感じるかという視点で日本で生活するのもたのしそうである。 言語は究極の身内ノリ、内輪ネタであると感じた。身内ノリ、内輪ネタとはある集団の中で共有されている価値観やルールで、その集団の外に出たら、それは理解、通用しないものである。言語も同様にX語を使う集団Xの中では通じるが、その集団の外に出たら全く通じないし、逆にその集団の外にいる人たちもX語を無勉強の状態では全く理解できない。言語を文化に広げても同様な解釈ができるだろう。異文化交流とはまさに自分の身を今までの身内ノリから別の身内ノリへと移動させることを指すのだろう。そして、異国に滞在して感じる疎外感は日本でも感じることができる。これらの疎外感というのは今までの身内ノリではない別の違う身内ノリにノれていないことに起因するのではないだろうかと推測する。 宿の中で一番好きな場所ができた。食堂の前にある、洗濯物干し場の縁の部分だ。そこは屋根があるので、晴れていても、雨が降っていても、最高だ。今日はそこに4時間くらいいた。そしたら、そこはあなたの好きな場所だよねと寮の友達数名に何回か言われた。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
2023-03
月次報告書3月分
過現未
ブラジリアに到着した。ついたら、迎えにきてくれることになっていた大使館の人が迎えにきてくれていた。そして、お腹が空いているだろうと言われて、レストランに行った。壁にかかっているバナナは無料だと言われたが、ご飯だけでお腹いっぱいになってしまったので食べられなかった。そのあとはブラジリア市内を車で観光し、コストコのようなでかいスーパーに連れて行ってもらい、生活に必要なものをその人にアドバイスしてもらいながら、いくらか買った。そして、宿に着いた。その日は相部屋の人がいなかったし、疲れていたので早く寝た。起きると隣のベットに見知らぬ人がいて驚いた。私が寝ている間に相部屋の人が帰ってきていた。寮の説明をしてもらうためにオーナーのところへ行った。一通り説明してもらい、前の日に買って冷蔵庫に入れておいたオレンジジュースを飲んだ。美味しかった。部屋に戻る途中で、寮に住む学生に会い、朝食を食べに行こうと言われたので、朝食を食べに食堂がある別館へ向かった。食堂で朝ごはんのパンを食べていると、別の学生がきた。どうやら、生徒会長と言われている学生で寮のボスだと言われていた。彼はとても日本語がうまく驚いた。彼は私の相部屋の人である。彼にSIMカードや外国人登録など色々なことを手伝ってもらった。感謝しかない。そして、部屋に戻って特にすることもなかったので、大学に行ってみた。まだ学期が始まる前の大学にちらほらと人がいた。大学内を歩いているときに、ふと大学のreitoriaに行かなくてはいけないことを思い出し、どこにあるのか探しながら、大学内を探検した。楽しかった。reitoriaでの用事も済ませ、帰宅すると、寮の学生たちが飲みに行くというので私も着いていった。寮の近くのbarは基本外飲みで多くの人で溢れていた。雰囲気は日本の居酒屋とあまり変わりないと感じた。ガヤガヤとそれぞれが好きなことを話しているという印象であった。楽しい時を過ごし、寮に帰り、二日目が終わった。とにかくみんな優しくて助けてくれるから今のところは何も問題はない。また、着いて三日位でもう一週間くらいいるんじゃないかと思い、カレンダーを見ると全然そんなことないという不思議な体験ができてよかった。もう少し詳しく表すなら、普段日本で生活している時より、到着してすぐであったということもあり、やらなければいけないことが多かった。そのため、体感的に過ごしている時間と実際に経った時間の乖離が非常に大きいという感じである。例えるなら、楽しいことをしていると時間が過ぎるのが早く感じるというもののもっと極端なものである。 中学生の頃にブラジルにいきたいと思い、ついに今ブラジルにやってくることができた。ここで起きた変化が次の変化に影響をもたらしてくれることを願う。
イベロアメリカ言語学科 3年 交換
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